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東京高等裁判所 昭和51年(ネ)1930号 判決

控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 谷口茂昭

右訴訟復代理人弁護士 若菜允子

被控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 野口良光

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

一  控訴代理人は、原判決を取り消す、控訴人と被控訴人とを離婚する、訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする、との判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の陳述並びに証拠の提出、援用及び認否は、次の二以下に掲げるほかは、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決書二丁表二行目「日本人男子」の下に「。なお、以下、年代は便宜西暦で表示する」を加え、同一二丁裏三行目「原告と乙山春子との同居先」を「原告の止宿先」に改め、同一四丁表四行目「第四号証」の下に「(第三号証は写)」を、同所末行「各証の成立」の下に「(第八号証及び第一三号証については、被告主張の各写真であること)」を、同丁裏三行目「第二八号証」の下に「(第八号証及び第一三号証は、一九五五年八月被告渡米直前における宝塚自宅前の写真)」をそれぞれ加える。

二  控訴代理人は、次のとおり付加陳述した。

1  控訴人・被控訴人間の婚姻関係は、既に、戦後両名がバンコックから引き揚げて間もなくのころから、主として控訴人の経済力に対する被控訴人の不満を原因として悪化し、続いて控訴人の事業の失敗がこれに拍車をかけ、遂に、一九五五年八月の被控訴人の渡米により決定的破綻を迎えるに至った。被控訴人は、米国籍の維持を口実にし、その実は明らかに控訴人の経済力に見切りをつけ、恒久的に控訴人と日本から去る意図の下に、当時苦境のどん底にあった控訴人のもとを去ったのであって、明らかに控訴人を遺棄したものというべきである。

すなわち、被控訴人は、その米国籍を維持するためには、米国籍法上渡米しなければならない必要性は全くなかったのであり、また、渡米に際し控訴人不知の間にピアノ教師にとって最も重要なはずのピアノをはじめ諸々の家財道具を処分していったのみならず、渡米後間もなく、控訴人に対し昔の恋人との再会及び日本国籍離脱の希望を手紙で伝え、一緒に渡米した一人息子への愛情ゆえにその冷酷な仕打ちに耐えていた控訴人を無残にも突き放し、最後の糸を断ち切ったのである。

2  本件では乙山春子との関係が問題となっているが、控訴人は、一九六二年ごろ相互の事業を通じて同女と知り合い、両名が事業以上の親密な関係を持つようになったのは、一九六八年以降であって、被控訴人との婚姻関係が破綻してから一〇年以上も後のことである。

控訴人は、前記事業の失敗から立ち直り、建築設計を業とする会社の社長として東京に定住し、一方、被控訴人は、渡米後二度にわたり米国内で住宅を購入し、その間息子の一郎(ケネス)は医師として独立し、ともども米国に定住している。また、被控訴人は、前後四回来日したが、その目的は宝塚の家の処分であったり控訴人からの送金の増額の要請であったりして、いずれも米国における生活費、教育費等のためである。そして、各滞在期間中、一度も控訴人宅を訪ねたこともなければ、控訴人に対し、同居・同宿を求めたことも、日本に帰国して控訴人と夫婦同居の生活をしたいと言ったこともない。

控訴人は誠実で責任感の強い性格であるのに対し、被控訴人は異常な金銭欲と周到な計画性を持ち、両名は性格的に全く相容れないものである。両名は、今日まで実に二五年にわたり、しかも、日本と米国に離れて完全な別居を続けてきた。両名の間は今や到底和解不可能であり、被控訴人が本訴において離婚を拒絶しているのは、ただ控訴人に対する憎悪と意地のみによるのであり、被控訴人には、控訴人との婚姻の継続を望む真意はみじんも見いだし難い。かかる婚姻関係をこれ以上継続させることは、両名を更に不幸にさせるばかりで全く無意味であるのみならず、数年間の別居自体を離婚原因の一つとしている世界の離婚法のすう勢にも反するものである。

三  被控訴代理人は、控訴人の右主張に対し、「控訴人主張事実中、被控訴人が渡米に際しピアノ等を処分したこと、渡米後二度にわたり米国内で住宅を購入したこと、来日滞在中控訴人方を訪ねたことのないこと、息子が医師として独立していること、及び控訴人が建築設計を業とする東京の会社の社長であることは認めるが、その余はすべて否認する。被控訴人が米国籍を維持するため渡米する必要があったことは、関係各証拠の示すところであり、渡米に際しピアノ等を処分したのは、渡米を勧めた控訴人自身了承しているところである。米国内での二度にわたる住宅購入は、一回目は従前の借家の家主から買取りを求められたからであり、二回目は控訴人から環境のよい住宅を投資目的を兼ねて購入するよう勧められたからである。来日滞在中控訴人宅を訪ねなかったのは、控訴人の方から被控訴人をホテルに投宿させて遠ざけたからであり、被控訴人からは、滞在中の同居・同宿はもとより、その後の夫婦同居を求めたにもかかわらず、控訴人においては、種々言を構えてこれに応ぜず、送金額を増やすからと言って米国での別居を継続させたのである。なお、宝塚の家の処分は、むしろ控訴人の要望によるものである。また、昔の恋人というのは、高校時代のボーイフレンドのことであるが、同人との再会の噂が広がり控訴人の耳に入るのを心配して、事前に手紙で事情を説明したのであり、日本国籍離脱の件は、二重国籍が米国内で問題になりそうであったので控訴人に相談したにすぎない。右のとおりであって、別居状態を作り出したのは控訴人自身であり、控訴人は、現在もなお乙山春子と不倫な関係を続けている。かかる控訴人の離婚請求は、道義的にはもちろん、信義則上も到底許されるべきではない。被控訴人は、米国での苦しい生活の中にあって、女手一人で息子を立派に成長させ、控訴人と家族一緒に暮らすことを夢みてきたのである。」と述べた。

四  《証拠関係省略》

理由

一  当裁判所もまた、控訴人の本訴請求を失当と判断する。その理由は、次の二ないし四の説示を付加するほかは、原判決の説示のとおりであるから、これを引用する。ただし、原判決書一五丁表四行目「真正に成立したこと」の下に「(写提出分については、原本の存在を含む)」を加え、同所九行目末字「甲」を「乙」に改め、同所一〇行目「乙」を削除し、同一八丁表一〇行目から一一行目にかけての「サージェント・ウィリアム」を「ウィリアム軍曹」に改め、同丁裏三行目「ピアノ教授料」の下に「と右ウィリアムからの家賃と」をそれぞれ加え、同二二丁表九行目「音楽コンクール」を「いわゆるオーディション形式によるピアノ検定会」に、同所末行「コンクール」を「ピアノ検定会」に、同二三丁表末行「同年」を「一九七〇年」にそれぞれ改める。

二  控訴人は、被控訴人の一九五五年八月の渡米は、控訴人の経済力に見切りをつけ恒久的に控訴人から別れたものであり、この時点において既に被控訴人は控訴人を遺棄したものであると主張し、《証拠省略》には右主張に添う記載部分があり、当審における控訴本人の供述により控訴人が息子の一郎にあてた手紙(一九七〇年)として原本の存在及び成立を認めることのできる甲第一六号証にも、被控訴人は一五年前控訴人から逃避した旨の記載部分があり、また、原審及び当審における控訴本人の供述中には、右主張に全面的に照応する趣旨の供述、殊に被控訴人が渡米のため羽田空港から飛行機に乗り込む直前に控訴人に対し「自分がなぜ行くのか分かっているんでしょうね。だからこれでさようなら。」と告げて永遠に去るがごとく出発した旨の供述部分がある。そのほか、控訴人の右主張に添う証拠としては、《証拠省略》には「いよいよ離婚を決意しての渡米」、《証拠省略》には「日本をすて主人もすててアメリカへ」・「とうとうこれで太郎兄さんと別れるのだなあ」、《証拠省略》には「永住の地をアメリカに求めて行った」という各記載部分があり、《証拠省略》中にも「もうこれで離縁状態に自分でアメリカへ逃げて行くんだ、飛び出して行くんだ」という供述部分がある。しかしながら、右《証拠省略》は、いずれも控訴人の身内の者が自ら解釈しているところを記載し供述したものである(殊に、右《証拠省略》は、いずれも本訴提起後に作成されている。)から、右各記載部分及び供述部分はたやすく採用し難く、したがって、《証拠省略》中の各記載部分及び供述部分を裏付け得るものではない。そして、原判決書一七丁裏七行目ないし一八丁裏末行に認定されている事実関係、《証拠省略》に照らして考えると、右《証拠省略》の各記載部分及び控訴本人の供述部分は、直ちに採用することはできない。

なお、《証拠省略》によれば、被控訴人は、当時使っていたピアノがとても古かったので、渡米に際し、控訴人に相談した上これを近所の丙川という人に売ることとし、売買の約束のみを取り交し、代金受領等は控訴人に頼んで行ったことが認められるから、被控訴人がピアノ教師として最も大切なはずのピアノを売却したことをもって、控訴人と別れて米国に永住する意図を有していたものとすることは難しい。次に、《証拠省略》を総合すると、被控訴人は、渡米の翌年(遅くとも四月二〇日ごろ)にハイスクールの同窓会で昔のボーイフレンドに会い、その夫婦の車で帰りを送ってもらったこと、ところが古い気風の街であるためあらぬ噂が立てられそうになったので、これが東京の控訴人の耳に入ることを心配し、真相を説明した手紙を控訴人に出したこと、また、そのころ米国では二重国籍のことが問題にされる気配のあったこと、そこで、被控訴人は、自己の日本国籍をどうしようかという相談の手紙を控訴人に出したこと等の事実が認められるから、ボーイフレンドの件や日本国籍の件で手紙を出したことをもって、控訴人に対し離別の意思を表明したものとすることは到底不可能である。

ところで、控訴人は、被控訴人が「一九五五年初めころ、米国政府から、米国本土若しくは沖縄等に一時帰国するか、又は日本にあるその関係機関に勤めるかしないと米国の国籍を喪失する旨の通知を受け」たという原判決の事実認定(原判決一七丁裏七行目ないし一〇行目)につき、被控訴人には米国籍法上果たして渡米する必要があったのかという点で、疑問を抱いている。そして、本件に提出された関係各証拠をつぶさに検討するも、米本土への帰国等をしなければ被控訴人が米国籍を喪失することになるという米国内法上の根拠規定は、その詳細なところまで必ずしも明らかにし得ないけれども、被控訴人が右認定のごとき趣旨の通知を受けたという原判決の事実認定自体については、これを動かすに足りる証拠がない。

ちなみに、《証拠省略》を総合すると、被控訴人は、一九六二年の来日に際し、控訴人の兄で大阪在住の甲野太一方を訪問し夕食のもてなしを受けたこと、席上、米国の生活が気に入っており、ケネス(一郎)が長じて「一人で住むのやったらアメリカに住んでいた方がいいんで、もう主人ないのと同じことです。……主人はもうまるで事業と結婚したようですわ、……まるで女の人なんていらない様な人ですね、……」(甲第四四号証から引用)と発言したこと、右発言がその他の会話とともに記念のためテープレコーダーに録音されていてその一部の反訳が甲第四四号証であることが認められ、甲第四四号証からの引用に係る右発言は、被控訴人が初めから控訴人と離別して米国に永住するつもりであったという控訴人の主張の裏付けの一つとなり得るもののごとくである。しかしながら、《証拠省略》によると、被控訴人は少なくとも宝塚では生活する意思のなかったこと(このことは、被控訴人が宝塚の土地家屋の処分を考えた一つの理由ともなり得る。)、右甲野太一方の夕食の際、同人の妻良子たちがもう一度宝塚で住んでみてはと話したところ、二、三応答があった後、被控訴人は、控訴人も渡米して一緒に住んでくれるなら米国は快適だから自分たちは一番幸せだと言っていたこと(この発言のあったことは、右証人甲野良子が控訴代理人の再主尋問に対し、はっきりと再確認している。)が認められる。その際の会話の右のごとき前後関係からすると、甲第四四号証からの引用に係る被控訴人の右発言をとらえて、被控訴人が控訴人を棄てて渡米したことの傍証とすることは、いまだ早計というほかはない。

右に種々検討した各証拠のほかには、被控訴人の渡米が控訴人に見切りをつけてこれと離別し、米国で永住するつもりであったものであるとすべき証拠はなく、その後の時点で考えても、被控訴人が悪意をもって控訴人を遺棄したものとすべき事情は認められないから、悪意の遺棄に関する控訴人の主張は、採用することができない。

三  被控訴人が一九六二年来日の際甲野太一方で、控訴人も渡米して一緒に住んでくれるなら自分たちは一番幸せだと述べたことは、右二の末段直前で認定したとおりであり、被控訴人が当時控訴人と一緒に生活したいと望みそのための話合いに来日した旨の原判決の認定(原判決書一九丁裏二行目ないし二〇丁表末行)を更に確実なものとし得るものである。そして、これが当時の被控訴人の偽らぬ心境と認めざるを得ない。これに対し、《証拠省略》によれば、控訴人は、その数年前である一九五九年に被控訴人の姉の冬子にあてて当時の心境を述べた手紙を書きこれを発信しようとしたこと(実際に発信したかどうかは定かでない。)、控訴人は、そのころ既に、急いで処理しなければならないことではないが適当な時機に被控訴人との婚姻関係を清算したいと考えていたこと、この手紙は、右についての援助を冬子に求めるために書いたものであることが明らかである。このように控訴人がかなり以前から被控訴人との婚姻関係を清算したいと思っていたことを考え合わせると、被控訴人が最初に来日した一九六二年当時には控訴人は既に乙山春子とかなり親しく付き合うようになっていたとの原判決の認定(原判決書二三丁表四行目ないし九行目)は、一層首肯し得るものとなるところ、以上の事実関係並びに《証拠省略》を彼此総合すると、被控訴人において夫婦同居の円満な家庭生活を望みそのための話合いに来日したにもかかわらず、そのころ控訴人においては既に他の女性(乙山春子)との関係を深めつつあったものと推認するに難くはない。そうすると、控訴人と乙山春子との不倫な関係の始期は必ずしも明確ではないが、被控訴人との婚姻が破綻した後に不倫な関係が開始されたのではなく、右不倫な関係が原因となって被控訴人との婚姻が現在見られるごとく破綻するに至ったものというべきであり、このことは、原判決が認定判断する(原判決書二四丁裏一〇行目ないし二五丁表五行目)とおりである。

控訴人は、被控訴人が米国内で二度にわたって住宅を購入したこと及び前後四回の来日に際し控訴人宅を訪ねたことのないことを問題にするけれども、《証拠省略》を総合すると、住宅購入については、一回目は従前の借家の家主から買取りを求められたからであり、二回目は控訴人から投資目的を兼ねて環境のよい住宅を購入することを勧められたからであること、被控訴人が前後四回の来日に際し控訴人宅を訪ねることをしなかったのは、むしろ控訴人がそれを望まず、あえて被控訴人をホテルに投宿させて遠ざけたからであることが認められるから、これらの点は、米国での別居生活を被控訴人が欲していたものとすべき事情とはなり得ない。控訴人はまた、数年間の別居それ自体が離婚原因である旨主張するけれども、かかる見解はたやすく採用し難いのみならず、原判決が認定し、これに付加して当裁判所が以上に認定した各事実関係からすると、別居状態の継続をもたらしたのは控訴人自身であるというべきであるから、控訴人の右主張は、採用の限りでない。

ところで、《証拠省略》によると、控訴人の父甲野春夫は被控訴人の性格を必ずしも快く思っていなかったこと、一九五一年五月には春夫に不平不満を覚えさせるような言動等が被控訴人にあったことは認めざるを得ないけれども、春夫との関係いかんということは、息子の控訴人との間がどうであったかということとおのずから別問題であり、これをもって、被控訴人の性格、言動等が控訴人との婚姻を継続し難いものであると断じ得ないことはもちろんである。また、被控訴人が一九六九年に日本でのオーディション形式によるピアノ検定会を開催しようとして準備をしたことは、原判決の認定する(原判決書二二丁表八行目ないし同丁裏初行)とおりである。しかしながら、《証拠省略》を総合すると、右ピアノ検定会は、被控訴人が日本に帰国して控訴人と同居するための生活費等を捻出するために考えたものにすぎず、その企画の推進等は専ら息子の一郎が甲野太一の協力、応援を得て行ったものであり、一九六九年秋にはこれを実際に開催したけれども赤字となり、また、被控訴人自身は現に来日していないことが認められるから、右ピアノ検定会の件をもって被控訴人の金銭欲、商才を示すものとすることは不可能である。

以上のほかには、控訴人をいわゆる有責配偶者とする原判決の認定判断(原判決書二四丁表四行目ないし同丁裏九行目)を動かすに足りる措信すべき証拠はない。

四  控訴人が当審において特に強調して主張立証した点につき、当裁判所の判断を右二、三に掲げこの点に関する原判決の認定判断を敷衍した次第であるが、それ以外の点でも、原判決の認定判断は、当審における証人甲野一郎の証言及び被控訴本人の供述により一層確実なものとすることができ、他方、当審における控訴本人の供述中右認定判断に抵触する部分は信用し難く、ほかには、右認定判断を動かすに足りる当審における新たな証拠もない。

五  以上によれば、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であるから、民訴法三八四条、九五条、八九条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡松行雄 裁判官 賀集唱 並木茂)

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